2011年06月20日

et son sextette/ステファン・グラッペリ

Et Son Sextette

et son sextette

ステファン・グラッペリ(vln)
マーリス・ベンダー(p)
ベノット・クアシン(b)
ジーン・ルイス・ビアレ(ds)


1955年録音

 ステファン・グラッペリを聴いていると、歳を取るのも悪くないんじゃないか、という気分になってくる。

 このアルバム、中古レコード屋で見つけたもので、フランス語らしいタイトルの発音もわからないのだけれど、録音は1955年、パリと書いてある。ぼくの持っているグラッペリじいさんのアルバムでは古い録音だ。後年の演奏を知っているので、ふっふっふ、若いなステファン、なんて気分になるけれど、ステファン1908年生まれで実は40代後半。押しも押されもせぬベテランで、そろそろゴールが見えてきても不思議はない年齢だ。
 だが当時のステファン・グラッペリに道の果てが見えていたとは思えない。その音楽は進化を続け、どこかで魔法めいたものに変わる。ステファン・グラッペリがいなくなったいま、ステファン・グラッペリみたいに弾けるひとはいない。そういう音楽は、誰がが予測したり、目標にしたりできるものではない。
 たとえ本人であったとしても、だ。

 ふと何かで立ち止まった拍子に、道の果てが見えたような気がしたときは、ステファン・グラッペリを聴くとよい。

2011年01月23日

シェ・トゥーツ/トゥーツ・シールマンス

Chez Toots
CHEZ TOOTS

トゥーツ・シールマンス(ハーモニカ)
バート・バン・デン・ブリンク(p)
ヘイン・バン・デ・ゲイン(b)
アンドレ・セカレッリ(ds)


1998年

 こういうのを聴くと、音楽というのは人間のどこに宿っているのだろう、と思う。ぼくらはなんとなく、優れた音楽は何年も修行を積んで取得した卓越した技量の上に成立するんだろうと思っているし、それは間違っていないはずなんだけど、トランペットやバイオリンと違ってハーモニカはフーってやれば音が出るわけだし、小学生だってさいたさいたくらいは吹ける。それとトゥーツ・シールマンスを隔てる決定的なものって、いったいなんなのだろう?
 それがわかったら、たぶん音楽を聴いても面白くないだろうな、という気もするんだけれど。

 ハーモニカで綴るフランス小唄(?)集。歌ありアコーディオンありストリングスありと華やかで、ダイアン・リーヴスとかダイアナ・クラールとかゲストも豪華だ。アルバムタイトルは、「トゥーツのところで」といったほどの意味らしい。
 そうかハーモニカおじさんはフランスの人だったのか、道理で、と思ったが、wikiにはベルギー生まれと書いてあった。別にフランスの人ではないらしい。

2009年09月13日

メンフィス・アンダーグラウンド/ハービー・マン


メンフィス・アンダーグラウンド
Menphis Underground

ハービー・マン(フルート)
ラリー・コリエル(g)
ソニー・シャーロック(g)
ロイ・エイヤーズ(vib)


1969年録音


 ぼくの持っているアルバムの相当数は録音されてから半世紀近く経っているけれど、そういう音楽を聴いていて古くさい、と感じることはほとんどない。ぼくがその時代を経験していないせいなのかもしれないが、それだけではないんだろうと思う。クラシックなんか数百年前に生み出された音楽を未だに演奏しているわけだけれど、たぶん「ベートーヴェン? うわ、ふっるー」みたいな発言をするファンはいないだろう。音楽の生存時間は、誕生日で決まるわけじゃないのだ。
 

 その反面、なんだか妙に陳腐に聞こえる音楽もある。ぼくはハービー・ハンコックの「ヘッドハンターズ」を聴いたとき、「うわ、ふっるー」と思った。このアルバム「メンフィス・アンダーグラウンド」でもそう感じた。

 
 それはたぶん、この音楽が悪いわけじゃない。
 ぼくはこの2枚が吹き込まれてからずっと後に聴いたのだけれど、その間にたくさんの(あまり質のよくない)この分野の音楽の模写が生まれて、そういうものがあちこちからぼくたちの耳に届いたのだと思う。毎日ラーメンばっかり食っていると、ラーメンそのものの美味い不味い以上に、もうラーメンいいや、みたいな気分になるけれど、それに似たことがぼくの中で起きたんじゃないだろうか。ラーメンみたいにポピュラーなカテゴリーでは特にそれが起きやすい。
 
 
 とはいえ、ハービー・マンががんばっているのは確かで、「Battle Hymn Of The Republic」なんか聴いていると、スタイル以前になんだけっこうやるじゃん、という気分になる。ハービー・マンは山っ気がありすぎる、と悪口を言われることがあるけれど、それは真っ向勝負が見たいよ、という期待の裏返しなんじゃないだろうか。少なくともぼくは真っ向勝負が見たい。

2009年06月09日

ヤードバード・スイート/ハービー・マン


ヤードバード・スイート
Yardbiad Suite

ハービー・マン(fl、ts)
フィル・ウッズ(as)
エディ・コスタ(Vib、p)
ジョー・プーマ(g)
ウェンデル・マーシャル(b)
ボビー・ドナルドソン(ds)

1957年録音


 ハービー・マン目当てで買ったのだけれど、家に帰ってからヴァイブを演奏しているのがひいきのエディ・コスタであることに気がついた。聴いてみたらとてもよい。好きなせいもあるけれど、リーダーほったらかしでそっちばっかり聴いてしまう。ぼくはエディ・コスタはピアノは面白いけれどヴァイブはまあ普通、程度に思っていたのだが、考えが変わった。リーダー作のはずの「ガイズ・アンド・ドールズ・ライク・ヴァイブス」よりずっと生き生きしている。緊張していたんだろうか?
 このひとにはやはり、長生きして欲しかった。ヴァイブのほうでもミルト・ジャクソンとはまた違った道を切り開いたかもしれない。

 肝心のハービー・マンはどこにいるのかよくわからないなあ、と思っていたら、フルートだけでなくテナーを持ち替えで演奏しているらしい。だがサックスも元気で若々しいフィル・ウッズが張り切っているので、こちらでもいまひとつ目立たない。一番存在感を発揮しているのはジャケットだ。
 その代わりに全体のバランスはなかなか絶妙。それもリーダーの力量のうち、ということなら、なかなかやるハービー・マン。

2009年04月21日

タフ・ダフ/ジャック・マクダフ


Tough Duff
TOUGH 'DUFF

ジャック・マクダフ(org)
ジミー・フォレスト(ts)
レム・ウィンチェスター(vib)
ビル・エリオット(ds)

1960年録音


 モダン・ジャズ界でのオルガンは、トランペットやピアノに比べたらずっとマイナーな楽器で、演奏者の数もそんなに多くない。それだけにジミー・スミスの存在が大きすぎて、楽器と演奏者が分かちがたく結びついているようなところがある。少なくともぼくの中では、サイコガンといえばコブラ、オルガンといえばジミー・スミス、みたいな短絡回路がすっかり出来上がっていて、ときどきオルガンがジミー・スミスを弾いているのか、ジミー・スミスがオルガンを弾いているのか、どっちだったっけ? と迷うことすらある。

 ぼくはジミー・スミスが大好きで、オルガンはそれだけ聴いていればそんなに困らない自信があるが、本当にそれでいいのだろうか、とふと不安になることもある。たとえばピアノならオスカー・ピーターソンを聴けば必要充分、と言い張るひとがいたとしたら、正しいかどうかはともかく、そのひとは損をしていることは確かだと思うのだ。ぼくも似たようなことをしているのではないだろうか。ひょっとしたら、オルガンにはもっと別の愉しさもあるのではないだろうか。
 そんなわけで、オルガンのアルバムは結構買ってしまう。

 タイトルとジャケット写真から、もっと無茶で乱暴な音楽を想像していたのだけれど(失礼)、蓋を開けてみたら思ったよりおとなしい。ジミー・スミスは何かの拍子に手綱がぶち切れて向こうのほうに突っ走っていってしまうことがあるけれど、このアルバムのジャック・マグダフはどちらかというと内に籠もるタイプみたいだ。鍵盤の上にうつむいて、頭のてっぺんから湯気を立てているのが見えるようだ。それにレム・ウィンチェスターの妙にひとごとみたいなヴァイブがかぶさるので、いまにも爆発しそうな、それでいて全然爆発しなさそうな、なんともいえない変な味を出している。

 やっぱりジミー・スミス以外も聴こう。

2008年11月22日

ビバッブ/バーバラ・ディナーリン


ビバッブ
BeBaB

バーバラ・ディナーリン(org,footpedals)
ユルゲン・ゼーフェルダー(ts)
ヘルマン・ブロイアー(tb)
アラン・ブラスキン(as)
ジョー・ネイ(ds)

1985年録音


 ぼくはジャズが好きなくせに、音楽理論や技術的背景にはほとんど無知だ。楽しみで聴いている分にはそうそう困ることはないのだが、たまに恥ずかしい思いをすることもある。
 たとえば実は、オルガンという楽器の構造がよくわかっていない。

 昔、我が家にあった古いオルガンは、足下にフイゴ風の足踏みペダルがついていて、これを自転車をこぐようによいしょよいしょと踏んでやるとオルガンに空気が送り込まれて音が出る、という仕掛けだった。ぼくはオルガンは後にも先にもそれしか見たことがないので、ずっとそういうものだと思い込んでいた。ジミー・スミスもよいしょよいしょとフイゴを踏んでいる、と考えていたのだ。ジャズ・オルガンの記事を読んでいると時々出てくる「フットペダル」というのは、これのことだと思っていた。

 が、あるときふと考えた。もしあのフイゴが「フットペダル」なら、「フットペダルの名手」なんて言い方をするだろうか? それは「腕立て伏せの名手」と言うのと同じくらい変だ。だいたい今時のオルガンにフイゴなんかついているのだろうか。もし昔ながらの空気圧を使っているとしても、電動ファンやポンプでどうにでもなる。
 で、YouTubeかなんかでジミー・スミスの演奏シーンをみつけて、愕然とした。フットペダルというのは、エレクトーンの足下についている、でっかい鍵盤みたいなあれだったのか。ああ、人に言わないでよかった。あ、言ってしまった。

 で、しばらくは心穏やかにオルガン・ジャズを楽しめるようになったのだが、このアルバムのライナー・ノーツを読んでまた唖然とした。バーバラ・ディナーリンは「キーボードとフットペダルの一人二役」と書いてあるのだ。クレジットまでご丁寧に(organ,footpedals)となっている。
 ひょっとしたら、フットペダルはオルガンの一部ではないのだろうか? 
 一人二役という以上、一人一役が標準だろうから、世の中には「フットペダル奏者」というひとがいるのだろうか?
 フットペダルというのは独立した別の楽器なのだろうか?
 オルガン奏者は普通はフットペダルを使わないものなのだろうか? 

 だれか教えて。

2008年10月25日

ヤング・ジャンゴ/ステファン・グラッペリ


ヤング・ジャンゴ
Young Django

ステファン・グラッペリ(vln)
ラリー・コリエル(g)
フィリップ・カテリーン(g)
ニールス・ペデルセン(b)

1979年録音


 若い頃のジャンゴ・ラインハルトとステファン・グラッペリの映像は、Youtubeあたりでけっこう見つかる。ちょび髭を生やし背広をりゅうと着込んだ、いかにも女殺しという風情のギタリストのジャンゴと、ひょろりと背が高く、軽妙洒脱でひとはいいが腰も軽いという雰囲気のバイオリン弾きのステファン。並んでいるとルパンと次元、C-3POとR2-D2、トムとジェリーという感じで、よい相棒で、よい友達だったに違いない。きっと一緒に女を殺したり、パリの酒場で酔っぱらったり、たまにはセーヌの川岸で殴り合いのけんかをしたりもしたんだろう。人生に黄金時代があるとすれば、そういう時間のことなんだろうと思う。
 ジャンゴは早くに亡くなってその名と伝説をジャズ界に残すが、相棒だったステファン・グラッペリに残されたのは、また別の種類の夢だったのだろう。


 二人が名を馳せたフランス・ホット・クラブというバンドは、ギター、バイオリン、ベースの組み合わせ。このアルバムはそれを模している。二人のヤング・ジャンゴもがんばっているし、名手ペデルセンの野太く正確無比なベースもすごいけれど、オールド・ステファンのバイオリンがいつもにまして絶品だ。生ギターが盛り上がり、ウッドベースがはじけまくり、バイオリンが火を噴いて、聴き手は飲み物を鼻から噴き出す。
 

2008年08月09日

バードランドの夜 Vol.1/アート・ブレイキー


A Night at Birdland, Vol.1
A Night at Birdland, Vol.1

アート・ブレイキー(ds)
クリフォード・ブラウン(tp)
ルー・ドナルドソン(as)
ホレス・シルバー(p)
カーリー・ラッセル(b)

1954年録音


 特別な夜、というものが確かにある。その夜を境に、それ以前とそれ以降、という語られかたをするようになる一夜だ。
 まあ夜、というのは単なる象徴であって、別に夜である必要はない。だが、何かが生まれて世界が少しだけ変わる、そういうタイミングは夜が似合っているように思う。物事が生まれるのはだいたいくらいところ、混沌の中からだから。
 1954年のその晩、アメリカのどっかのクラブでちょっと愉快なものが生まれた。


 それから時間で半世紀、距離で地球を半周離れたところで、その夜の音楽を聴いていると、なんだか不思議でしょうがない。ぼくは奇跡を信じない。たとえばぼくが明日朝起きてみたらわけもなく億万長者になっている、ということは起こらないように、物事は起きるべきときに起きて、起きにくいものは起きないのだ。同じ理屈で、たまたまぴったりその夜に、奇跡的にヒマを持てあましていたブルーノートの連中が録音機材を持ち込んだ、というのは不自然だと思う。きっとそういう特別な夜はけっこう頻繁にあって、たまたまそのうちの一つが録音されたに過ぎないのだ。

 そう思うと、この世界もけっこう捨てたもんじゃない、という気分になってくる。

2008年03月20日

2 3 4/シェリー・マン


2-3-4 (紙ジャケット仕様)
234

シェリー・マン(ds)
コールマン・ホーキンス(ts)
ハンク・ジョーンズ(p)
エディ・コスタ(vib,p)
ジョージ・デュヴィヴィエ(b)

1962年録音


 「2」はテナーサックスとドラムスのデュオ、「3」はピアノ・トリオ。「4」はそれにテナーが加わったカルテット。曲目によって編成の変わる風変わりなアルバムだ。フル出演はシェリー・マンだけで、しかもピアニストが入れ替わったり、楽器の持ち替え(エディ・コスタはピアノとヴァイブの二刀流)があったりするので、一曲ごとに印象ががらりと違う。
 一見、まとまりがつかなくなりそうな演奏をシェリー・マンが職人芸でピシリと粋にまとめた野心作、とでも言えそうだが、実は「4」や「3」はともかく、テナーとドラムスのみという変わった構成の「2」が録音されたのは、


 ほかの人が帰っちゃったから。


 らしい。午前3時過ぎにハンク・ジョーンズとジョージ・デュヴィヴィエが眠いからと帰ってしまい、残されたシェリー・マンとコールマン・ホーキンスがもうちょっとやろうぜ、とその場の勢いで録音したのが「2」である。往生際の悪い酔っぱらいかあんたら。しかも酔っぱらいのやることだから、コールマン・ホーキンスが変なピアノを弾いている。一度弾いてみたかったらしい。
 野心作というより、いいかげんなだけでは?


 で、ぼくは思うのだが、「いいかげん」はジャズの真髄なのではないだろうか。「その場の勢い」って言うけれど、アドリブって「その場の勢い」以外の何物でもない。その意味では、このアルバムはアルバムそのものがアドリブなのだ、とも言える。らしいといえばこれ以上ジャズらしいアルバムもない。
 何ヶ月もかけて1枚のアルバムを吹き込む他のジャンルのミュージシャンのことを考えると申し訳ない気もするけれど、ぼくのせいじゃないからいいや。

2008年02月17日

ポートレイト・オブ・ピー・ウィー/ピー・ウィー・ラッセル


Portrait of Pee Wee
A Portrait of Pee Wee

ピー・ウィー・ラッセル(クラリネット)


1958年発売



 ピー・ウィー・ラッセルは顔が長い。


 ビル・クロウという人の書いたジャズのエッセイを読んでいたら、ピー・ウィー・ラッセルは顔も長けりゃ鼻も長い、だいたいからだがひょろひょろ長くて死体みたい、という話がひんぱんに出てくるので、いったいどんだけ長いんだろう、とアルバムを買ってみる気になった。考えてみると音楽を聴いても長さはわからない。たまたまジャケットが似顔絵だったので、顔が長いことだけは確認できた。


 顔が長いせいかどうかはわからないが、ピー・ウィー・ラッセルの演奏もまたひょろひょろとしている。が、ジャズ・クラリネットはベニー・グッドマンの頃から多かれ少なかれひょろひょろしているもので、柔らかくひょろひょろしているのがクラリネットの魅力でもある。ぼくはクラリネットの音色が好きで、モダン・ジャズの世界でももう少しクラリネットの出番が欲しいと思うが、それはそれとして懐かしくなじみ深いフォーマットの中で、クラリネット本来のひょろひょろを愉しむのも悪いことではないと思う。

2008年01月02日

スタンダード/ジミー・スミス


Standards
STANDERDS

ジミー・スミス(org)
ケニー・バレル(g)
ドナルド・ベイリー(ds)

1957〜59録音


 人間の身体というのはよくできていて、特定の栄養素が不足すると、自然とそれが豊富な食べ物が食べたくなるのだそうだ。育ち盛りでたんぱく質が必要なら肉類を、疲れて糖分が入用なら甘いものを、塩っけがいるときは塩っ辛いものを。酒を飲んだあとにラーメンが食いたくなるのも、きっとラーメンの何かを身体が欲しがっているのだろう。
 ぼくはときどき無性にオルガンのジャズを聴きたくなるが、これにも似たような理由があるのだろうか。オルガンには他の楽器にはあまり含まれない独特な栄養素が豊富で、ぼくはたまにそれが足りなくなる、といったような。


 オルガンのジャズが聴きたい、となるとジミー・スミスの出番だ。ほかの人もいくつか聴いてみたし、これからも聴くつもりだが、いまのところ禁断症状に一番「効く」のはやっぱりこの人なのだ。
 さらに、オルガン発作がでたときには賑やかな「ザ・キャット」じゃなくて、小編成のこのアルバムがあたりがありがたい。ジミー・スミスはパワープレイが身上だけれど、ここでは珍しくゆったり構えて、ニコニコじっくりと弾いている。そのうち暴れだすんじゃないかと、ちょっと気味が悪いくらいだ。もちろん暴れたりしないけれど。


 で、オルガンに豊富な独特な栄養素って何だ? という問題だけれど、いまのところあえて答えを見つける必要もないと思っている。別に困っているわけじゃないし。もしこのアルバムが効かなくなったら、新しい薬を探せばいい。それもまた、音楽を聴く楽しみのひとつなんじゃないだろうか。

2007年12月06日

ジ・アフリカン・ビート/アート・ブレイキー


ジ・アフリカン・ビート
The African Beat

アート・ブレイキー(dsほか)
ソロモン・イロリ(dsほか)
ユセフ・ラティーフ(flほか)
カーティス・フラー(ティンパニ)
アーマッド・アブダルマリク(b)


1962年録音



 世界で最初の楽器は、太鼓だったに違いない。

 なま暖かい草原の夜、獲物をあぶって食った焚き火の残り火を囲んでご満悦の仲間たちの誰かが、焚き火に投げ入れようとした木の枝で、何の気なしに、自分が腰掛けていた倒木を叩いてみる。倒木はたまたま中身が空洞で、いい音がする。どどんが。

 ?

 ふと興味を持って、もういちど叩いてみる。

 どどんが。どどんが。

 ?

 もう一度やってみよう。

 どどんが、どん。

 眠そうに寝そべっている仲間たちの何人かが、妙なことを始めた彼をちらりと見る。

 どどんがどん、どどんがどん。

 何人かが不思議そうに身を起こす。

 どどんがどんどん、どどんがどん、どどんがどんどん。
 わは!

 興味を持った仲間の一人が自分も木の枝を持って、倒木を叩いてみる。どどん。
 
 お?

 どどんどん、どどんどん、どどんどん。

 二人のリズムがたまたま同期する。

 どどんがどんどん、どどんどん、どどんがどんどん、どどんどん。

 わはは!

 残った仲間たちもみんな身を起こす。
 

 世界最初のジャム・セッションは、こんな風に始まったんじゃないだろうか。このアルバムを聴きながら、ふとそんなことを考えた。焚き火のはぜる香りや、なま暖かい草原の夜風を感じたような気もする。


 あのカーティス・フラーが、なぜかティンパニを叩いているんですけど。

2007年11月24日

マイ・フェア・レディ/シェリー・マン


マイ・フェア・レディ
Modern Jazz Performances Of
Songs From My Fair Lady

アンドレ・プレヴィン(p)
リロイ・ヴィネガー(b)
シェリー・マン(ds)

1956年録音



 ピアノのアンドレ・プレヴィンってどこかで聞いた名前だと思ったら、今ではクラシックの指揮者として大御所といってもよい立場にある人らしい。64年の映画「マイ・フェア・レディ」にも音楽総指揮としてクレジットされている。なんだかえらい大物だ。
 この1枚はジャズ・アルバムとしては記録を破るくらい売れたらしいが、確かにピアノは聴きやすい。ちょっと品が良すぎる感じはするが。ぼくなんかはもう少し変幻自在にスイングするピアニスト、たとえばオスカー・ピーターソンなんかだったらもっと楽しいかも、などと不遜なことを考えたりもするけれど、それはそれで味のうちなのだろう。

 ピアノがスクエアな分、ジャジーなところを引き受けているのがシェリー・マンの小粋なドラムスで、目立たないところでちょこちょこ小技を使っているのが楽しい。そういうところもウエスト・コースト・ジャズの流儀なのか、あくまでも上品にバックに徹し、回りを押しのけてソロをとったりはしない。
 とって欲しいのに。

 というわけで、よい意味での欲求不満がちょっと残る名盤なのだった。

2007年08月27日

アット・ザ・オルガン Vol.3/ジミー・スミス


At the Organ vol.3
Jimmy Smith at the Organ, Vol. 3

ジミー・スミス(org)
ソーネル・シュワルツ(g)
ドナルド・ベイリー(ds)

1956年録音


 突然だが、ぼくはらっきょうが好きだ。
 それも、妻の実家の自家製の、シンプルに塩と唐辛子でつけた、ピリピリ辛いやつが好きだ。
 これ、味も匂いも歯触りも独特で、自分でもなんでこんなものが好きなんだろうと思うけれど、癖になる。慣れてしまうと、カレーライスについてくる甘らっきょうじゃ物足りないのである。


 ジミー・スミスのオルガンは極上の塩らっきょうだ。
 とくにこのアルバムでは、いつにもましてむき出しで、やりたい放題で、強烈な匂いがするし、苦手な人は苦手に違いない。それでもここで味わえるのは、土の香りのする、鮮烈な音楽だ。
 お試しあれ。


 ところでいきなりVol.3なのは、特に深い訳はない。気がつかないで買ってきたのだ。Vol.1とVol.2はどこに行けば手に入るんだろ。

2007年07月20日

アフタヌーン・イン・パリ/ステファン・グラッペリ


アフタヌーン・イン・パリ
Afternoon In Paris

ステファン・グラッペリ(vio)
マルク・エムレ(p)
エバーハルト・ウェーバー(b)
ケニー・クレア(ds)

1971年録音


 この人が、パリの街角で弾くバイオリンを聴くためなら、たいていのものは投げ出しても惜しくはあるまい。
 そしてぼくは、(おそらく)最後の来日で間に合った。小さくコホコホと咳をしながら、でもじいさんの肩の上で踊るバイオリンは、まるで魔法の杖だった。


 いま思い出してもなんか泣けてくる。


 ジャズ・バイオリンというジャンルがあるのかどうかはよくわからないし、その分野で頭角を現すひともこれから出てくるのかも知れないけれど、ステファン・グラッペリが去ってから、こういうバイオリンが弾けるひとはもういないのだろうなあ、という気がする。
 で、たぶんそれは正しいのだろうと思う。


 このアルバムの最後に入っている「枯葉」を聴いて、ジャズの世界ではスタンダード・ナンバーとして知られているこの曲が、元々シャンソンの名曲だったことを思い出した。